★トップシェフの眼光(第14回)「パンと暮らしの サ・マーシュ 西川功晃シェフ」

トップシェフの眼光(第14回)

「パンと暮らしの サ・マーシュ(2010年オープン) 西川功晃シェフ(たかあき/1963年生)」



風雲児の大いなる休息、リ・スタートでさらなる高みへ。




◆現在リニューアル工事中◆

画像全国に名を轟かせるカリスマ・ブーランジェ西川功晃シェフの店「サ・マーシュ」が、2018年7月1日から9月上旬再開をめどにリニューアル工事に入っている。

その背景には、前職である「ブーランジュリーコムシノワ&オネストカフェ」時代が忙し過ぎたから、ゆとりのある仕事をしようと自店を構えたはずだったのに、現実はよりいっそう忙しくなったということがある。
サービスも限界に近づき、二人三脚で店作りに励んで来た奥さんの文さんも、もうこれ以上はムリというレベルに達していた。加えて、昨年はじめて人手不足を経験し、現在の社会状況で人を育てることの難しさに直面したということもあった。
さらに言えば、万年青年のシェフも当年とって55歳。周囲にリタイアする人も増えて来て、自分が60歳の時にどうなっているべきか、ということも考えるようになった。

店のリニューアルは一部ながら、商品は原点に還って西川のパンを見つめ直し、一度全部壊して再構築。一人でやり直してみようと考えている。製造スタッフは全員すでに送り出してしまった。
一人(ほぼ)で作ることに関しては、最近の独立志向を妨げる状況をかいくぐる方法を提示できるのではないかとも思っている。経営者志向で多店舗展開するのでもなく、研ぎすまされた職人志向でマニアックなパンを焼くのでもなく、日常に寄り添って地域の暮らしに溶け込んだパン屋の在り方が元々「パンと暮らしのサ・マーシュ」の目指すところだったのだから、その路線を突き進めば見本となれるだろうとも思っている。若者が魅力を感じるような、そしてこれなら手が届くような店づくり。独立の夢をあきらめてほしくないのだ。

生涯ではじめて2ヵ月にも及ぶ仕事の中断(といっても相変わらず講習会や新商品開発の依頼が引きも切らない)で、今までになかった貴重な体験を重ねているようだ。
長い付き合いの人とはじめて食事に行ったり、岡山の豪雨被災地にボランティアに出掛けたり、45年ぶりに姫路の小学生時代の友人たちに囲まれたり。その一つひとつが新鮮で刺激になっているという。何事からも貪欲に吸収し、自分を成長させることをやめない人だ。
人手不足を機に反省を交えて考えたこと、再開後どんな店作りになるのかを語ってもらった。長くなるが、まずは波瀾万丈の経歴から。



◆直情径行、熱い心が運を招き寄せて来た半生◆

元々サッカー少年だった。京都代表でインターハイにも出場するようなサッカーの伝統高校で活躍。一時は日本代表も目指していた。故障があってリタイアしたが、燃える心の原点はこの辺りにあるのかもしれない。
熱しやすさは転身を図る際にも活かされたようだ。
サラリーマン家庭の男二人兄弟。喧嘩ばかりしていたのだが、お兄さんが就職し、神戸南京街の名門洋食「伊藤グリル」で働くようになった。過労で倒れるほどの頑張りを見て、尊敬するように変わったそうだ。
そのお兄さんから誘われて、度々「伊藤グリル」で食べるようになり、料理に関心を持つようになった。同時に、デザートにも興味を抱き、神戸の有名店を食べ歩いたり、京都では学校帰りに真っ黒に日焼けしてスポーツバッグをぶら下げた男の子がショーケースに貼り付いてしげしげとケーキを眺め、「どんなケーキなんですか」と尋ねる場面が見られるようになった。甘いものに夢中になったのだった。でも、誕生日ケーキよりは菓子パンを山ほど食べたいという食欲が勝ることもあったらしい。この年代なら当然だろう。

このような背景があって、就職はお菓子関係と決めたが、サラリーマン家庭なので知り合いに業界関係者がいない。お父さんが伝手を頼んで紹介してもらえたのが、広島の「タカキベーカリー」。「アンデルセン」などを展開する大手だ。幼少時を過ごした街でもある。
ところが配属先はパン部門。思わずお父さんに愚痴を漏らしてしまった。すると、優しすぎるお父さん、人事の担当者に希望と違うけれどどういうことなのか、とわざわざ尋ねに乗り込んで来てくれたのだった。お父さんもけっこう熱い人なのかもしれない。
人事の人は、「我が社はパンで大きくなった会社で、まずベーシックな部分を身に付けていただかないと」と正論を述べて円く収められてしまった。お父さんは納得したものの、本人はやはり不満。不承不承元通りの配属でパンを触らされるが、その面白くないこと。やる気がないから、何をやらされてもまったくできない。ある日、ハタと気が付いたのは“このままで菓子部門に異動したら、パンが出来ないから飛ばされたことになる”ということ。
そこでようやくパン職人西川がスタートを切ったのだった。心を入れ替えて3年間ほど夢中になって生地に触りつづけた。

小学生以前に住んだ街なので友達もいないし、休みの日は市内に3つあるデパートの地下食品売場を見て回るくらいしかすることがない。1店舗3周くらいしていたというから、けっこう怪しげに映っていたことだろう。暇よりいいからと、休日出勤して他部門の手伝いをしたりしていた。その熱中ぶりのおかげで、わずか3年で店がどうあるべきか、商品それぞれと商品構成がどうあるべきかなどを口にするようになっていた。お菓子への関心も再びむくむくと湧いてきていた。弱冠23歳である。その噂は上層部にも届いたようだった。
ある日、会長からお呼びが掛かった。「西川さん、会長がお呼びです」
さすがに真っ青になって会長室へ行ったが、話を聞くと言われて、日頃考えていた持論を余すところなく話した。話は尽きることなく、昼飯時となり、会長に誘われて会社の前の料理屋へ。ビールも勧められる。それでも話が終わるどころか先も見えない。ついに自宅にまで招かれ、家族が囲むダイニングの大テーブルに同席し夕食を取りながら延々と話しつづけた。一番遠い席から息子さんが、「西川君、そんなにフランスに行きたかったら行けばいいじゃないか。有給やるよ。ただし、旅費は自腹だぞ」と急展開。1週間ほどだが、憧れの地を自分の足で踏むことができるようになった。

西川に「タカキベーカリー」を紹介した人が、会長が恩人と仰ぐ人だったという幸運もあるが、熱誠あふれる語り口があってこその話。今も変わらない少年っぽさの残る語りは人を惹き付けてやまない。けっして巧みな弁舌ではないが、嘘もハッタリもない、飾りのない真っ正直なもの。本人は自分勝手だったというけれど、会長が丸一日を西川と付き合いたいと思わせるだけの熱い真情が伝わったからだ。
西川には運を招き寄せる力が備わっているようだ。



◆フランス現地体験によって夢はさらに膨らむ◆
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1週間ほどのフランス滞在は刺激的だった。若きピエール・エルメがちょうど「フォション」のシェフに就任して話題になっていた頃。そこにフランスで修業中のお兄さんの知り合いが勤めていて、見学を許された。エルメのお菓子も凄かったが、総菜店でもあるだけあって、社員食堂が圧倒的だった。スタッフの出身地を考慮したのか、食の関心が世界に向けて広がっていたからなのか、世界各国の料理がフルコースで揃っていたのだ。ただただ感心するのみ。

帰国するとさっそく人事と掛け合って、「青山アンデルセンの菓子部門以外、僕が働くべき部署はありません」と意思を押し通してしまった。ようやく念願の部門に就いたというものの、すぐにフランスと同じものが出来た訳ではなかった。ルセットもなければ指導者がいる訳でもなかった。気持ちだけが先行していたのだった。
悶々とする日々、その頃の下宿先の西麻布の近くに「ル・スフレ」(現在閉店)というべらぼうに美味しいスフレ専門店があった。そこの店長が現「ノリエット」のオーナーシェフ永井紀之さん。仲良くなっていろいろ話をするうちに、「大会社アンデルセンのケーキを変えるなんて、お前みたいな若造にできるわけないだろう。辞めればいいんだよ」と言われてしまう。転職するという考えがなかっただけに衝撃だった。それ以来、東京の最先端のフランス菓子の動向を追うようになった。
ある日、「オーボン ヴュータン」を訪れると、そこにまたしても永井さん。「こいつ面白い奴なんですよ、紹介します」と河田勝彦シェフに引き合わせてくれた。即、「ここで働きたいんです」と頼み込んだ。「アンデルセン」で働いていて、辞めるまで半年くらい掛かると告げてもOK。異例の採用となった。その異例ぶりは、近くで下宿先を探したときに不動産屋さんから「運がいいねえ。近くにいっぱい待機中の人がいるよ」と教えられたほどだ。
永井さんとはこれ以前にも、「イル プルー シュル ラ セーヌ」を訪れた時、キッチンから出て来た際に鉢合わせしており、弓田享シェフとも知り合いの出来る奴と誤解されていたことが背景にあったようだ。

晴れて就職し意気揚々、キッチンへ行くといきなりスーシェフ候補。本来はまず販売、それからやっと厨房に入っても洗い場からというのが基本。周りの目も「なんだあいつは!」と注目の的。
スーシェフの大塚良成(現「ジャック」オーナーシェフ)さんが渡仏直前で引き継ぎということになった。「じゃ、1日仕事見ててくれる?」ということで、じっくり見学。翌日、出勤するや「じゃ、やって」。 えっ、 呆然! 
「何からすればいいですか」と尋ねると、たった一言「いいよ」。
そこですべてが終わり、自分のするべき仕事がなくなった。おそらく、前日投げ掛けるべき質問もなく、取るべきメモも取れていなかったのだろう。その時点で実力を見抜かれていたに違いない。だからこそ、一言での終了宣言。
とはいえ、逃げてしまう西川ではなかった。ともかく仕込みだと、仕込み担当のところへ行って側から作業を見守り、ダスターで拭いたり、カードを差し出したりと必死でサポート作業を探し、自分の居場所を見つけなければならなかった。

後で河田シェフに聞くと「勘違いで採用した」とのことで、すぐに実力はバレてしまったが、粘り強さだけは見込まれたのかもしれない。ある時、まったく未経験のショコラティエを任命され、ショコラの部屋へ。ショコラのチーフが厳しい人で、まったく噛み合わなかった。周りのスタッフも「あの人のもとで大丈夫か」と心配してくれるほどの強者。しかも二人っきり。
まず西川がとった行動がダスターを洗ったこと。「馬鹿やろう水を使う奴があるか」。たしかにチョコレートに水は厳禁とはよく言われることではある。「でも、シンクがあるし、ダスターは汚れているし」「大理石は拭くんじゃない。全部削り取るんだ」「手が汚れますけど」「舐めろ!」。
型に流し込んだチョコレートがうまく外れなかった。「型が隅々まで完璧に拭き取れていないんだ。キュッキュッと音がするまで拭かないからだ」と大目玉。それ以来、型を拭くときは口でキュッキュッと言っていたらしい。なんだかマンガのような世界。
厳しい職人とズブの素人との掛け合いは傍目には笑い話だが、直面した人間に取っては地獄だっただろう。ある日、話があると喫茶店に誘われたが、なんの話し合いにもならないまま。コミュニケーションの取れない間柄だった。そんな関係が半年も続いた。強い精神力を持つ西川だが、それでもこの半年で十二指腸に穴が開いてしまったというから、その苦しさの程度が思いやられる。

「オーボン ヴュータン」時代は物質的にも苦しい1年だった。等々力は地価が高く、家賃が6万円、フランス語を習うのに数万円、月に一度お兄さんとフランス料理を食べに行くのに数万円。お金は残らなかった。だから、食事はほとんどがパン。それも安くヴォリュームのあるバゲットに頼っていた。
ある日、お兄さんが持って来てくれたバゲットがすこぶる美味しかった。聞くと「ビゴの店」のもの。「おぉこんなに美味しいパンがあるのか」と目を開かされた。



◆人とぶつかりながらも前へ進む◆

画像さっそく、銀座店のシェフ藤森二郎さんのところに押し掛けて、就職を直訴。「オーボン ヴュータン」に勤めているなら有望な人材であることは間違いないので、即採用。夢見た菓子の世界での大成からは後退したが、新たな目標にメラメラと燃え上がったのだった。
「オーボン ヴュータン」を経験した後ではどんな仕事でも楽勝だった。パンは「アンデルセン」で本格的にやっているので順調に推移したのだが、精神的には必要以上にテンションが高過ぎた。
キッチンを神聖な職場と考えていたのか、業者の人が入って来ることにすら、怒りの矛先を向けていた。「ネクタイ締めた人間がなんで入って来るんだっ」という調子。ある日は菓子部門で遅刻して来たスタッフを、パンの部屋からわざわざ出掛けて行って殴りつけたりもした。被害者からすればとんだ災難。どこから振って湧いた剣幕なのかまるで見当が付かなかっただろう。驚くしかない熱血ぶり。採用した藤森さんは頭を抱えていた。

そうこうするうちに藤森さんから呼ばれ、「今度パンのワールドカップがあって、ビゴから一人、ドンクから一人、ほかにもう一人派遣することになったけれど、ビゴからは君に行ってもらおうということになった。よろしく頼む」と告げられた。
ちょうどサッカーが一時期の低迷を脱して盛り上がりはじめていた頃、同じ京都出身、同世代だった柱谷哲二選手らが日の丸を着けて活躍する姿は、自分が及ばなかった世界を見せつけられる思いだった。「うん、日の丸を着けるのはいいなぁ」と喜んでしまった。が、その代わり、フランスに行く前に芦屋の本店にしばらく行ってくれと言われ、大会前のブラッシュアップのつもりでいそいそと出掛けた。
御大フィリップ・ビゴさんに挨拶に行き「短い間ですけどお世話になります」というと、「なにいうてまんねん、ずっとやで」。この当時、パンの2大ワールドカップはまだ開催されていない。噂が出ていたかどうかという時代ではなかったか。おそらく人買いに騙されて売り飛ばされたような気分だったことだろう。

出来る人材に育っていた西川へのビゴさんの要求は高かった。まず岩園店を任され、そのうち本店も手伝えということになった。
「岩園店があるじゃないですか? 無理ですよ」「ええから」
ということで、昼夜兼行のハードなスケジュールをこなすことになった。無類の体力があるからこそ可能にしてしまったが、ただでさえハードな職種で就業時間が長いというのに、それを2人分やってしまうとは。
潰れてしまったのは、ほったらかしにされがちになった岩園店のスタッフのほうだった。ある日の朝7時、本店の仕事を終えて岩園店に戻ってみるとスタッフが誰も来ていない。まさかと思いつつ、ともかく仕込みを急ぎ、スタッフが遅れてでも来てくれることを期待しながら必死になって仕事にのめり込んでいた。
そこへやって来たのは、フランスから技術指導のために日本のパン事情を視察に来ていた青年。パンが作れるなら手伝えといって無理やり引っぱり込んでしまう。ビゴさん流が移ってしまったようだ。そんな彼とは今も友だち付き合いをしている。
とまぁ信じられない修羅場のような日々を5年ほど送ることになる。
西川本人が自分のパン作りは学究肌ではなく本能タイプという。ビゴさんはそれをさらに上回る本能の人らしい。「ラフに作っているのに美味しく焼けるんだよなあ」といまだに及ばないものを感じている様子。だからこそ、ビゴ流を身に付けたくて、ハードさに堪えられたのだろう。その間ビゴさんとは何度もぶつかリ、突き飛ばされることもあったようだ。西川本人以上の熱さを見せつけられたのだった。



◆才能を開花させる直前、雌伏の日々◆
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そのような生活に、楽しいことが無かった訳ではない。芦屋勤務になるとお兄さんに伝えたとき、「コムシノワ」の荘司索シェフに会うようにと言われていた。「隣の伊藤グリルで働いていた西川の弟と言えば会えるから」と教えられていた。
休日に南京街の「コムシノワ」のレストランで食事をし、マダムにシェフに会いたい旨を伝えると、パティスリーにいるということで、元町通のほうの店を訪ねると、初対面からパンはどうあるべきかとか、こんなパンを作りたいんだといった話で大いに盛り上がり、以後、機会あるごとに会うようになった。
ある日、荘司さんが「こんなパンを焼いたから食べてみて」という。ジャガイモの入った、生地を捏ねないパン。捏ねないパンなんてと半信半疑だったのだが、それが美味しかった。さっくりホクホクと美味しい生地に仕上がっているし、ジャガイモの香りはするし。それまで神経質に作っていた自分のパンに対する気持ちをフッと緩めて自由にしてもらった体験だった。荘司シェフとの交流は、将来に希望の火を灯してもらうような感じだったのではないだろうか。

時は過ぎ、「ビゴの店」を退職して、一度フランスでパン作りを体験したいと履歴書を山ほど携えて渡仏した。年明けに阪神淡路大震災が起こった。神戸のことが心配で知り合いに電話をしても詳細が分からないまま。大変なことになっているが、どうやら「ビゴの店」も「コムシノワ」も人的な被害はないらしいということで、ひとまず安心し、自分の就職活動を続けた。しかし、労働ビザもなく会話もままならなくては雇ってくれるところがなく、やむなく震災から半年後に引き上げて来ることになった。
未だにブルーシートだらけの神戸の街で、感動の再会。荘司シェフは「待っていたんだよ」とすぐにでもいっしょに店を出そうと言って来た。大阪のある店を手伝っているのでタイミングをみてということに。荘司さんも震災を経験してパンに対する考えが少し変わり、“パンは食の原点”というようになっていた。原点を作らないと料理も完成しない、そのためには君がいないと完成しない、と。

明けて96年春、「ブーランジュリーコムシノワ」がJR神戸駅の東、国道2号線沿いにオープンした。西川がはじめてシェフになった瞬間だ。この先15年ほど荘司シェフの下で、荘司さんの眼鏡に適うパンを焼きつづけることになる。いま多くの業者から新製品開発を依頼される圧倒的な創作力はこの間に鍛えられることになる。
なにせ荘司さんはフレンチの巨匠石鍋裕シェフの下で働いている時に、勤務時間を抜けてコンサートに行きたいんですと要望をだして認められたという猛者とも言うべきアートの人。つねに本を愛読し、本とともに生きている人なのだ。
西川への要求も、白州正子の「私の骨董」という写真集を出してきてこんなパンを焼いてよとか、映画「カサブランカ」のハンフリー・ボガートがイングリッド・バーグマンに“君の瞳に乾杯”という場面のテーブルにふさわしいパンといった抽象的なものだったりする。ただ食欲を満たすために食べるだけでなく、物語を内包したパンといえようか。
要求が具体的な時には、実現不可能だったり、常温では置けないもの、原価を無視したものだったりする。毎朝中央市場へ一緒に行って、素材の持ち味や調理法をレクチャーしてくれたりもした。その膨大な情報量を作り上げるパンに活かすように促される。
実現できたのは無数に出てくる要求のうちの1、2割だというから、荘司シェフの発想の豊かさは量り知れないものがある。
こうして格闘する中で、またたく間に「ブーランジュリーコムシノワ」は全国レベルの人気店に成長し、「ブーランジュリーコムシノワ&オネストカフェ」へと発展する。西川も押しも押されもせぬ大シェフへと成長し、2009年第2回「モンディアルデュパン」の日本代表、ついにワールドカップ選手となり、日の丸を着けることも果たしたのだった。

我が道を突き進む西川を育てたのは、人との出会いだった。タカキベーカリー技術顧問の城田幸信さん、河田勝彦さん、永井紀之さん、フィリップ・ビゴさん、そして荘司索さん。いずれ劣らぬ名人上手の人たち。彼らから得られるものをたっぷり吸収するまで、しがみついていたという修業時代だったと云えるだろう。
なかでも荘司シェフにはいまだにパン作りから、人としての在り方、また生活全般においてさまざまな刺激をもらっていて、憧れの人だという。尊敬できる人が身近にいて、そして一緒に仕事に励むことができた、なんと幸せなことだろうか。



◆いよいよ“本物”のパン職人へ◆
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驚くべきことにこれだけの重要人物となりながら、いまだに満足していないのだ。
これからいよいよ“本物”になりたいという。いまは露出の多さで有名になっているだけという自己評価を西川自身は下している。

店を再開した時、品揃えは一新されるという。もちろん、従来から引き継がれるものもあるだろうが、ともかく全品見直しされる。小手先の変化はいらない。そのために、白州正子の「私の骨董」「ものを創る」という本にも立ち返ったりしている。中には醗酵をじっくりと突き詰めたパンなども欲しいとか。
今後のことはまだ模索中ではあるが、必ず反映されそうなことは地産地消であったり、スローフードであったりという自然と健康を意識したパン作り。
地元の有機野菜の美味しさ、素材そのものの魅力を打ち出した料理を1970年頃から広めたアリス・ウォーターズの考え方が好きだという。最近になって彼女の店、バークレーにある「シェ・パニーズ」まで食べに行き、その料理感覚を学ぶとともにインテリアなどもたっぷり吸収して来た。
その余禄としてアメリカンスイーツの意外な充実ぶりに心を奪われてもいる。カジュアルで健康的。その上、飽きない美味しさと優しさがあった。

今後拡大して行く活動としては“食の教科書”作りが挙げられる。長い間自分のパンを多くのお客に食べてもらって来て感じることは、自分で美味しい不味いの判断が出来る人が減って来ているということ。素材に対する知識が不足しているし、人工的な味や見掛けにだまされがち。自分の尺度を持ったいい食べ手を育てないことには、創るという行為が一方通行で終わってしまう。それを防ぐためには、食べ手を育てる食育が不可欠のところまで来ていると感じていた。
神戸市に提案を持ちかけたところ大歓迎を受けた。特別給食で美味しい食の体験を積み重ねると同時に、なぜ美味しいのかその背景を教えようというもの。土の話をはじめ、作物の育て方であったり、海産物と山の環境、川の役割も含めた関係など美味しい食材を守り育てて食の環境を豊かにすることまで。あるいは食と添加物の善し悪しにまつわる科学的な知識の裏付けを持って判断する力を与えることなど、幅広いカリキュラムが考えられている。西川の頭の中では、ゆくゆくは、子供たちも参加しながら土壌づくりから種まき、食物を育て収穫し、その材料でパンを作る。もちろんパン以外でもいい。そんな体験も取り入れていきたいと夢は膨らむばかりだ。いや、実現不可能な夢というより、達成すべき明確な目標となっているようだ。
そのためには、市だけではなく、教育委員会、給食を実際に作る栄養士さんたち、メニュー開発とレシピを提供する料理人も必要。神戸市内のミシュラン3ツ星レストラン「カ・セント」の福本伸也シェフの快諾も得ている。彼のスペイン料理だけでなく、西川の顔の広さでフレンチ、イタリアン、中国、インド、和食など各国料理が目白押しになるだろう。
もちろん、このプロジェクトは長い年月が必要だし、効果が即効で現れるわけではなく忍耐強い取り組みが求められるだろう。子供たちが大人になる頃には西川はパン職人を辞しているかもしれない。が、そんなことは構わない。現状を打破しようとすでに精力的に動き出している。

パンでは日頃から西川だけが独走すると批判的だった「兵庫県パン協同組合」に、自ら参加することで西川の活動が同時に“県パン”の動きに繋がればいいと思い、遅ればせながら入会した。するとここでも大歓迎され、会長から給食を改革できないかと、初対面にもかかわらず相談を持ちかけられた。まさにピッタリのタイミング。給食におけるパン食の機会が米食に押されて週1回にまで減少しているのを、2回、3回と増やしたいというもの。給食でパンが忘れられればパン業界の未来はないというのだ。提供される格安小麦粉を変更しなければならないという難題はあるのだが、メニュー提案のなかで解消できることなので、市から県に動きが広がればさらにいいだろう。

多くの仕事を引き受けることで多忙を極めたが、その間に、人や団体を動かす力を蓄えたようだ。
一人に戻ると聞いたとき、一瞬、年齢も考慮して活動の規模を小さくするのかと思ったら、逆に壮大なヴィジョンが出て来たことに驚かされた。
しかし、それは元々西川シェフがずっと考えて来たこと、まさに、店名通り「パンと暮らしのサ・マーシュ」、日常の食生活の充実と重なっているのである。
肩肘張らない笑顔溢れる食卓に喜びをもたらすパン。そこにどれだけ職人として誠実に向き合えるか。美味しさを追求するのはもちろんだが、毎日の糧であるからこそ、安全と健康を約束するものでなければならないし、リーズナブルな価格で実現しなければならない。そのために食育からスタートしなければならないということなのだ。

自分の信念を実現するということでは若い頃から一貫しているが、具体化するために人を受け入れ、人のために働くことを惜しまない、優しさと懐の深さには感心させられる。
自分の仕事のための時間を取り戻して行く中で、どれだけの高みにまで上り詰めて行くのか、再開後、日々さらなる進化をつづけていくことだろう。期待に胸が膨らむ思いだ。


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※敬称略/このシリーズはインタビューを基にオリジナルに構成したものです。(取材・執筆/久保田僕  撮影/岩本律子)  文責:日本パイ協会

※文中のパンの写真は、西川シェフが以前に焼いたものです
※9月15日のリニューアルオープンから2か月後に再度インタビューした、続編をアップしています。