★トップパティシエの眼光(第12回) 「フランクス 東野卓仁シェフ」 

トップパティシエの眼光(第12回)

   「フランクス(1980年オープン)     東野卓仁(たかみ)シェフ(1953年生)」




               オープン30年を経て、初心に戻る




画像東大阪市、近鉄奈良線・河内小阪駅近くの「フランクス」はサンドイッチのおいしい店として、沿線ではつとに有名な存在だ。オープンして36年目、この業界では老舗と呼んでもいいような店だ。
その「フランクス」が2012年からパンを自前で焼くようになった。

大人気店で、カフェは朝から夜までずっと満席に近いような店、順調すぎるようななか、あえてしんどい仕事を取り込んだ。
「オープンの時に食パンだけは習っていたんですよ。自分で焼いたパンでサンドイッチが作りたかったんです」
初心を忘れず、60歳目前で新たなスタートを切ったのだった。

この決意の背景にはいろいろ条件が重なっていた。2010年くらいに、パン職人が独立する前にサンドイッチの修業をさせて欲しいといって志願してきた。その彼は修業を終えると独立してパンカフェをオープン。それを見てうずうずしていた時に、またパン職人歴7年という増田智一パン部門シェフ(現)が入店した。
フランクスは1階がサンドイッチのキッチンと、パン、サンドイッチ、ケーキのショーケース、カフェ、2階がケーキのキッチンとカフェだった。3階に別のテナントが長年営業していたのだが、増田の入店と時を同じくして、突然空いたのだった。
そういう偶然が重なり、条件が揃うと、東野の心は大きく揺すぶられ、前へ進むしかなくなった。

32年ぶりの初心の貫徹。製パン部門を立ち上げるというので、若かりし頃、サンドイッチ部門、ケーキ部門でやったように自ら先頭を切って現場に立った。増田がいるから任せても出来るのだが、経営者としてすべてを把握しておきたかったし、まさかのときの備えとしてノウハウを身に付けておきたいという思いもあった。
以来、4時起きの生活。仕込みから焼き上がりまで。それだけでも1人前の仕事なのに、その後にサンドイッチのシェフとしての仕事が待っている。超人気店なだけに猛烈な忙しさである。
若いときならいざしらず、そろそろ人がリタイアを考え始める年齢だ。身体のことを心配する奥さんの強い反対があったようだ。まあ、当然だろう。
家族の反対を押し切るほどの強い想い。東野の“のめり込む”性格がそうさせているのだろう。




◆ベーカリージャパンカップ3位入賞◆

画像自店でパンを焼き始めて3年目、2015年の第2回ベーカリージャパンカップに応募した。

関西大会は前年のうちに神戸で行われ、見事関西代表の栄誉を手にしていた。
審査は3つの部門に分かれている。食パン部門、菓子パン部門、調理パン部門の3つ。
「フランクス」は調理パン部門での応募だ。

『サンドイッチ“ハンバーグコッペ”』
『サンドイッチ“ローストビーフのクラブハウスコッペ”』
『サンドイッチ“豚バラ肉の煮込みコッペ”』

3品でコンテストを勝ち抜こうとした。会場へ食材だけでなく、調理機材や道具も持ち込みという規定。コンロや冷蔵庫は提供されることになっていたのだが、コンロがほとんど家庭用レベルのカロリー。パン作りも含めて制限時間6時間というのは厳しかった。
豚バラの煮込みを下茹でで十分に柔らかくした上で、特製ソース(デミグラス+自家製ソース)で煮込んで深く味を滲み込ませようと思うと、冷まして休ませる必要もあり、本当は一昼夜欲しいくらいのものである。難しい闘いだった。

ふっくらとキレのいいコッペパンのサンドイッチ。上から黒ごま入り、プレーン、チーズ入りの3種を焼いている。ベーカリージャパンカップだけに、このパンの成否が雌雄を決するといっても過言ではない。
その難関に、パンを焼き始めて3年で挑んだのだから天晴れ。
しかも3位入賞を勝ち取って来るのだから恐れ入る。増田シェフの力もさることながら、東野ののめり込みが尋常ではなかったのだろう。増田にすべて焼かせたにしても、自分が欲しい食感、風味の絶対的なイメージに向かってダメ出しをしつづけたに違いない。

フィリングについては、サンドイッチ製造35年の歴史を背負っているから当然とはいえ、その美味しさのレベルはすこぶる高い。
ハンバーグは日頃からハンバーガー用に作っているタネだから楽勝。ローストビーフの薄切りを重ねた食感と旨味は格別。豚バラの柔らかさと味の濃度、とくに脂のコクと深い酸味のソースとのマッチングは垂涎もの。よくぞ、6時間で仕上げたものだと思う完成度だ。

このメニューは店頭では昨年の創業35年の記念イベントとして、週替わりで1品ずつランチメニューとして登場したのみ。やはり賞を獲るために特別に気合いの入ったメニューだったということだろう。そのレベルを確認するにはランチのハンバーガーで試すことができる。
ともあれ、実作業歴3年での栄冠により、パンという柱が売上だけでなく、質の高さを公認されたという意義が大きい。

それもこれも、東野が開店時から思いつづけた想いの深さを維持してきたこと、パンを外注していた時代も、仕上がりに対する要求の高さを守りつづけてきたからこそではないか。




◆本当は工学系の道に進むはずだった◆

このような強い想いを抱く精神は一朝一夕になったものではない。育ってきた背景がものを言っている。
シェフの趣味はバイク。今は乗る暇がなく愛車カワサキW650をバイクショップに預けてしまっている。
だが、かつて小学4年生の時に親戚のお兄ちゃんが乗っていた250ccのCD72というバイク(50年以上前のことなのに、突然の質問にすらすらと車種名が出てくる)に憧れ、毎週毎週、後部座席に乗せてもらい、ツーリングを楽しんだ。スピード感、振動、音が堪らなかった。
高校生になると牛乳配達のアルバイトでお金を貯め、バイクを購入。パーツの組み立てもやるし、モトクロスに出場するところまで、本格的にのめり込んでいた。

そういう生活を過ごすうちにレーサーへの憧れもあったが、マシンそのものへの興味も深まり、大学は交通機械工学という特殊な学科を専攻した。まさに機械の虫になるはずだったのである。
しかし、人生には思わぬ転機が待ち受けている。

東野家は祖父の代まで農業、父親は不動産業だったそうだが、親戚に当時としては最先端を行く自家焙煎を行う喫茶店を営んでいる人がいて、客商売に違和感はなかった。その影響か、東野のお兄さんが喫茶店を始めた。アルバイトでお兄さんの店を手伝ううちに、次第にこういう仕事も面白いと思うようになっていた。
大学4回生になって就職活動をしたのは1975年。オイルショックの翌々年、不況から抜け出せずにいた。少し前にはローマクラブの「成長の限界」がベストセラーになり、“モーレツからビューティフル”へというコピーが受けていた時代。万博を機にマクドナルドがチェーン展開をはじめ、外食産業が注目を集めていた。

そのような時代の波もあるが、大学に求人票が来ていた高級サンドイッチブランド「グルメ」に応募した。まだまだ大卒が飲食業界に進むことは稀だった。先見の明があったというべきだろう。
阪急三番街にあった店は、坪効率日本一と言われていたほどの人気店。東野は幹部候補生としてのエリート教育をほどこされ、新しくオープンする心斎橋大丸百貨店内の店で実地に店長教育を受けることに。生来ののめり込む性分も手伝ったのか、すぐに店長の資格ありという段階にまで進んでいたのだが、運悪く身体を壊してしまう。
当時は今と違って、社会人になって学生気分を引きずったままということは許されず、新しい人格に生まれ変わるというほどの覚悟を求められていたものである。その緊張感と熱中のあまり、知らず知らず身体を痛めつけていたのだろう。
「グルメ」のサンドイッチは自分で作っていても、「こんなに美味しいサンドイッチ、他にはちょっとないで」と思うほどのものだったので、離れがたいものを感じていた。




◆オーナーシェフの道◆

身体が治ってくると、今度は「自分でやってみよう」という気持ちがムクムクと湧いてきた。
“こんなに美味しいサンドイッチ”をメイン商品とするカフェを開こうというのだ。カフェの運営はお兄さんの店で体験していて見よう見まねで分かるし、マーケティングや会計面についても「グルメ」の教育で身に付けているつもりだった。

出店場所は近鉄奈良線・河内小阪駅から2分ほどのところ。現在地である。
近くに大阪の名門女子大、樟蔭女子大がある。お嬢さん大学と呼ばれ、お金持ちのお嬢さんたちが通うと言われていた。集客は間違いないから、他店よりもいいものを出しさえすれば売れると踏んでいた。商品力には絶対の自信があった。
自店オープンに際して、パンも自分で焼きたいと思い、準備期間中に食パンだけは焼けるレベルに修業していた。しかし、知り合いから「そんなん無理やで、サンドイッチやってカフェやってたらパン焼いてる時間はないで」って言われて断念した経緯があった。オペレーションを真剣に検討してみて断念したのだった。

1980年6月15日、サンドイッチ・カフェ「フランクス」がオープン。すべり出しは順調だった。
狙い通り女子大生も来たし、サンドイッチの評判も良かった。品質の高さで売った「グルメ」の良き遺伝子を受け継いでいると言えるだろう。
しかし、すぐに客足が途絶えてしまう。当然、開店景気というものがあって、開店時の売上のピークを常態と考えるのは危険だということは分かっていた。漸減傾向になるのは覚悟していたが、突然の激減。大学が夏休みに入ったのだった。学校は年に3回の大きな休みがある。その落ち込み分をプールできるほどの売上を上げるか、ほかの顧客でベースを作っていて、女子大生の売上を余録と考えるのかでなければならなかった。
マーケティングが出来るつもりになっていたが、実地に年間の売上の安定化を見越した販売計画になっていなかったことに気付かされた。

急遽、計画の練り直しである。
メインターゲットを近所の主婦層30~50代に切り替えた。
ランチを狙うことと、テイクアウトを多量に準備することにした。カフェでの売上というのは席数×回転数で上限が決まるが、テイクアウトは上限は製造力の限界まで上げられる。
「グルメ」の三番街店が日本一の坪効率を誇ったのもテイクアウトが好調だったからだ。ちなみに“テイクアウト”という和製英語を筆者が最初に聞いたのは「グルメ」だったと記憶している。1968年頃のことだ。

経営の安定化のためには、売上の柱をいくつも作ることが大切。カフェでの売上とテイクアウトの売上。顧客層でも主婦と女子大生の2本柱となった。
3年後くらいからは自己流のケーキも用意するようになった。デザートによる売上アップである。次第に売上の柱となる成長部門を作ったことになる。




◆人脈のありがたさ◆

そんなある日、店に輸入食材の営業マンがやってきた。まだ、営業マンということも分かる前に、お互いに顔を見合わせ、声を揃えて「久しぶり!」ということになった。小学校から中学の1年まで同級生だった幼馴染み。
聞いてみると、製菓製パン食材の大手「イワセエスタ」で長く働いていて、新しい輸入食材の会社に転職したとのこと。無名の会社なので飛び込み営業で得意先を開拓中だったのだ。

画像東野が店の状況を語り、ケーキが自己流であって、習うところがあれば習いたいと思っていると告げると、さっそくに紹介しようと言ってくれた。前職の数多ある得意先から、時代の先端を行く店を選び出してくれた。

それが東三国という中心街を外れたところにある「プラス ONE」という店。
1987年頃の話なのだが、その当時美しくデコレーションされたアントルメを置く町場の店などほとんどなかった。しかし、ここは常時20種類くらいも置いていたという。プチガトーもスポンジに生クリーム、フルーツというパターンではなく、フランス風のクレームオブールを主体にした口溶けのいいケーキやムース、タルトなどだったとのこと。筆者は場末にあるということだけで不覚にも行きそびれてしまって、残念至極なことに、往時の飛び抜けて美味しいという噂しか知らないのだが。

ここで、東野からはサンドイッチを教えるという交換条件で、無償で教えてもらうことが出来た。毎週、店の休みの時に出掛けて熱心に吸収した。
普通、独立してプロになると誰も教えてくれないものである。人脈を通じて、運良く時代の先端のケーキ作りを学び、ケーキの商品価値を高めることにつながった。
たちまち評判を上げて、売上の大きな柱となった。テイクアウトももちろん行うようになり、人を雇って作ってもらわないと間に合わないほどの売上を上げるようになって行った。2つの部門を引き受け、身を粉にして働くことで、成長路線に乗せることに成功したのだった。




◆絶対的な力を持つ顧客が隠れている◆

成功の裏にはこんな逸話もある。

ずいぶん横柄でわがままな注文をつけるお客がいたそうだ。あれを入れてくれ、これを抜いてくれ、こんなんできるやろとわがまま放題。困ったなと思いながらも、対応できないものではなかったので、素直に注文を受け入れていた。それが気に入られたのか、繰り返しやってくる。抵抗はあったものの、常連客だしな、という気分。

ところがある日、“シェフ、大口引き受けてくれへんか、できるやろ”とまた強引な申し込み。
聞くと樟蔭女子大の卒業式後の茶話会が毎年大々的に行われていて、500円相当くらいのサンドイッチが父兄も交えて800~900人前必要だという。前年まで「グルメ」が引き受けていたが、何かしくじりがあり、業者スイッチということになったらしい。わがままな常連さんは樟蔭PTAの理事で、「フランクス」を推薦してくれるという。
願ってもない大仕事。出来るかなという一抹の不安はあったけれども、少し離れたところにケーキ用の少し広いキッチンスペースを借りていた時期で、そのスペースがあるからできるなと、計算したのだそうだ。

納品デッドラインの時間を決め、作業を細分化して作業スケジュールを組み立て、アルバイトに知り合いをかき集めさせて人海戦術。各パーツに掛けられる人数が決まると、それぞれのパーツの作業時間が決定し、作業開始時間も決定する。一カ所でも作業が停滞すると全体がストップして遅れ出すので、素人軍団で絶対にこなせる作業ノルマ、単純作業にして行かなければならない。
それこそ、軍隊のロジスティックの計算のように綿密でなければならないのである。

理事一人の推薦で簡単に決まるものではなく、理事会で面接が行われた。その時に、サンドイッチを持参して理事たちに試食してもらった。500円という予算を上回る内容を詰め込んでいた。美味しさを納得してもらい、生産計画をしっかり伝えられれば大丈夫と考えていた。
案の定、盛り込み作戦が成功。理事会の決定というだけでなく、個人的なファン作りという意味でも成果があった。「グルメ」のマーケティングでは、美味しさに納得した顧客は口コミの発信源となり1人から5人に伝わるとされていた。
このようなきっかけで茶話会を通じて父兄にも広く認知されて行き、「フランクス」が狭い範囲とはいえブランド化するのに大きな影響があった。親子3代にわたっての「フランクス」ファンというのも珍しくない。
学生数の減少で、近年は400~500名分と少なくなったが、今も3月の定例行事となっている。この時ばかりは、30年来の外注先であるパン屋さんに大いに助けてもらっている(自店でパンを焼くようになってからも、こまごまとしたパンはお願いし、付き合いを絶やさないようにしている)。

◆時代の変化にいかに対応するか◆
企業の寿命30年説というのがあるが、東野は自ら新しい柱を導入し先頭に立って成功に導いた。
「オープン当初は苦労した。安定した柱を築くためにアイデアも搾ったし、試行錯誤を重ねました。その後は安定していたんですけど、ここ数年、社会全体を見ても、不況の中、新しい業態の登場が相次いでいます。いつまでも同じままでいられる訳はないですね」と語る。
本格的に挑んだ手作りの美味しさというものは、時代を経ても変わるものではない。「フランクス」のサンドイッチの美味しさがその証明でもある。
しかし、店というものはつねに何か新しい発信をしていないと味は同じでも古びてしまい、新しい顧客を得られず、次第に衰退してしまう。それが企業30年説の論拠でもある。顧客の世代交代を取り入れられる店でありつづけなければならないのである。
東野は店は間口を広げる方がいいと言う。多くのいろいろな種類の顧客を広く呼び込めるというのだ。サンドイッチの顧客、ケーキの顧客、焼き立てパンの顧客、女子大生、主婦、子供連れ、男性客、……。すべてを受け入れる間口の広さがあり、いったん口にしてみると、それぞれの分野で専門性が高く、満足度が高く、リピーター率、口コミ率が高くなる。この点に関しては最初に習い覚えた教えが、時代を超えて生き続けているということだ。
時代に先駆けて自家焙煎していた親戚の喫茶店、飲食業を面白いと思わせたお兄さんの店、そして「グルメ」。すべてが東野の血肉となって、「フランクス」の舵取りを成功させたに違いない。生涯現役を宣言している彼のことだから、いずれまた、新たな柱にのめり込む日が来るかもしれない。そのときもバイク少年のように目を輝かせていることだろう。



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※敬称略/このシリーズはインタビューを基にオリジナルに構成したものです。(取材・執筆・撮影 久保田僕)文責:日本パイ協会

※ブログ「パイ日和・おまけ」では、このお店のサンドイッチを紹介しています。

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