★トップパティシエの眼光 (第5回) 「モンプリュ 林 周平シェフ」 

トップパティシエの眼光(第5回)

「モンプリュ(2005年オープン)   林 周平シェフ(1965年生)」





        「ジャン・ミエ」的世界の普遍性





◆憧れのドゥニ・リュッフェルに師事するまで◆
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「モンプリュ」の林周平(1965年生)シェフは、愛情をいっぱいに受けて育ったようだ。母親が、レシピに頼らずスポンジを焼いたり、揚げ菓子を作ったりしてくれたという。だから子どもの時から菓子好き。

きっかけは忘れたそうだが、高校生の時には、パティシエになると決めていたそうだ。おまけに、なぜだか根拠もなくお菓子はフランスだと決めていて、フランスに渡ることも決心していた。
硬式テニスに夢中になっている明るいスポーツマン。ネガティブ発想が苦手で、理解できないという超ポジティブ人間の林。お菓子を作ったこともなければ習ったこともない。ましてフランス語も分からないのに、フランスへ行けばなんとかなると思い込んでいた。

さすがにこれは周囲の猛反対で頓挫し、父親の伝手を頼って、高校卒業と同時に、大阪の「東洋ホテル(現・ラマダ ホテル)」に入社。こうして彼のパティシエ人生がスタート。
それで素直にここでじっくり腰を据えて学ぼうとした訳ではない。NHKラジオのフランス語講座を聴いたり、フランス行きの計画を実行すべく、着々と準備を進めていたのである。ホテルでの修業もフランスへ行った時に、一人前として扱われるだけの実力を蓄えるために一切手抜きなし。目的があって、その実現のための修業だから、「修業時代に辛いと思ったことは一度もない」とのこと。

その後、「ホテル シェレナ」を経て、5年後の1989年に渡仏。「ホテル ニッコー ド パリ」に就職した。ここも目指す店に就職するためのステップと考えていた。
修業したかったのは7区にある「ジャン・ミエ」。戦後フランスの菓子業界を牽引してきた最有力の店の一つ。創業者のジャン・ミエは当時、フランス製菓組合の会長の要職に就いていた。毎朝、キッチンに顔は出すけれど、もう現場を離れていて、現場を任されていたのが娘婿のドゥニ・リュッフェル。これまた負けず劣らずの大物で、日本のフランス菓子業界に多大な影響を与えた人物だ。

日本のフランス菓子を語る時、「ジャン・ミエ」を抜きに語ることはできない。なぜなら、「ブールミッシュ」の吉田菊次郎、「イル プルー シュル ラ セーヌ」の弓田亨、「パティスリー・ドゥ・シェフ・フジウ」の藤生義治、「パティシエ・シマ」の島田進、「イデミ スギノ」の杉野英実、「ジャック」の大塚良成、「ア・ポワン」の岡田吉之、「エーグルドゥース」の寺井則彦、「サダハル・アオキ・パリ」の青木定治、などなど。そして、今回の主人公、林周平。錚々たる顔ぶれが「ジャン・ミエ」の門を潜っている。
「ジャン・ミエ」は1989年当時、「イル プルー シュル ラ セーヌ」の顧問的な関係にあり、つねに「イルプルー」から一人修業に来ていた。林が雇ってもらうべく、毎週のように通っていたら、たまたま、「イルプルー」席に欠員が出来た時期に、半年後、知人の紹介を経てようやく入り込むことができた。12回振られつづけ、13回目にして実ったチャレンジだった。
過酷な中にも有頂天の日々の始まりである。




◆「ジャン・ミエ」時代。ひたすら働く日々◆
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「ジャン・ミエ」は一見地味で小規模の店舗のようだが、2階に「ジャミ」という名のショコラティエも構えていて、毎週月曜にトラックで積み出すほどの卸販売を行っていた。チョコレートをはじめとするコンフィズリーの他にも、アイスクリームやソルベ、ヴィエノワズリーなど。
さらにリュッフェル・シェフがパリのパティスリーにおける先駆者となったトゥレトゥール、その上、ケータリングサービスまで行っていた。ケータリングは7区区役所の公的なパーティであったり、ルイ・ヴィトンやシャネルといった高級ブランドのパーティ、お金持ちの結婚披露宴など、豪華で気の張るシチュエーションでの仕事が多かった。

「ジャン・ミエ」のパリでの位置づけは非常に高いものがあった。付き合いが広く、多くの3ツ星のシェフから尊敬されており、彼らがデザート用に仕入れに来ていた。
たとえば、当時「ジャマン」で飛ぶ鳥を落とす勢いのジョエル・ロビュションも店に来て、自店のシャリオ・デセール用に仕入れていた。林はミエ氏の紹介で予約の取れない「ジャマン」に席を取ってもらって食べに行き、デザートに自分がその朝作った『タルトタタン』を食べるハメになった、と笑い話を披露してくれた。

これらの溢れるほどの仕事量、最高度の品質を最小限の人数でこなしてしまうのが、この店の流儀であり、その超多忙のなかで、一切の手抜きを許さないのがリュッフェル・シェフだった。遅くてもダメ、雑になってもダメ、コックコートを汚してもダメ。いずれかが欠けたら仕事の評価は、ゼロ。
林はその猛烈ぶりに、負けじと喰らい付いていった。振り返ってみると、肉体的には過酷ではあったが、相変わらず、少しも辛いと思ったことがなかった。望んで飛び込んだ修業が濃密であればあるほど、ありがたいと感じたのだ。
その過酷さは、フランス人の新人が「こんな仕事の仕方はおかしい。狂っている」といって、その日の朝入ったばかりなのに昼に辞めてしまったのが最短記録。林が在籍した3年間に日本人も含めて、数えきれないほどの人間が辞めていった。
ハードな日々の唯一の愉しみが、3階の倉庫に何か物を取りに行く仕事。途中、2階の「ジャミ」を通過する時に、作り損なって、再加工に回されるチョコレートが大きな袋に仕舞われているのを、一つ二つ摘み食いすることだった。失敗したものとはいっても、質の高いチョコレートだったし、隠れて食べることの愉しみは格別だったようだ。




◆'89~'92年、新しい動きのあるなかで◆

「ジャン・ミエ」は「ルノートル」「ペルティエ」などと共に、60年代から70年代の流通革命に乗じて、新鮮な素材の美味しさをそのまま味わうという、ヌーヴェル・パティスリーを先導した店の一つ。
フランスで揺るぎない地位を築いていたが、90年代に入ると、「フォション」のシェフに「ルノートル」出身のピエール・エルメが抜擢され注目を集めていた。後で調べてみると、エルメの配下にクリストフ・フェルデール、フレデリック・ボウなどがいた。まさに新しい時代の胎動が始まっていた。
'91年には「クープ デュ モンド ド ラ パティスリー」で、安藤明、杉野英実、林雅彦の日本チームが優勝した。日本国内も変化が起きようとしていた時代である。

しかし、当時の林はエルメの考えには着いて行けなかったという。
むしろ「ジャン・ミエ」の古くからの伝統菓子、地方菓子などのレパートリーに惹かれていた。「フォション」の新しいケーキに比べると、緊張感や斬新さのない、日常性を帯びたケーキになってしまっていたが、それをミエ氏が30年も前に開発したのかと思うと、凄いことだと感じられた。
最先端よりも歴史に根ざしたお菓子作りを学べること、幅広く食全般の修業ができることを大切だと考えていた。
素材それぞれの本来的な楽しみ方、素材の力を知ると同時に、その味わい方を学ぶことで、一つひとつの素材の可能性が見えてくるのだった。

エルメのお菓子の世界は、ビジュアルが先行する部分もあるし、素直に美味しいというより、“力づくで説得する味”。だからこそ、そこにアート性も生まれるのだが。ベースが築かれる前に、当時の「フォション」に飛び込んでいたら、素材の本当の美味しさを知らないまま、無理に人を説得するお菓子を作る世界に迷い込んでいたかもしれない。
日本人がフランス菓子を修得するには、フランス人が当たり前に通り過ぎている、素材の味を知る、という部分を経なければならない。フランス的素材の本領がどこにあり、どのように食べられるべきなのか。この基本を学ぶ上で「ジャン・ミエ」は最適の場所だった。
丸3年間、師匠ドゥニ・リュッフェルの動作、思考方法のすべてを写し取るように、一挙手一投足を真剣に観察した。どのような包丁を使って、どのように持ち、素材ごとの切り方、力の入れ方、…。それが、さらに別の道具にも及ぶ。フエ、パレットナイフ、ゴムべら、カード、スケッパー、篩などなど。立ち姿から、話し振りに至るまで、すべてが憧れの対象となった。表面的な観察で見えない裏側まで透かして見るようにしていた。

ハードという言葉では到底追い付かないほど、濃密な日々。仕事に没頭することで、一切、疲れとか悩みというものを知らずに過ごした。元々、ポジティブ・シンキングの人間ではあるが、師匠リュッフェルの薫陶により、物事に動じない精神が養われたという。




◆独立までの道のり◆

帰国した林は「ホテル阪急インターナショナル」「シーサイドホテル舞子ビラ」「御影高杉」と歩んで、2005年に、ようやく「モンプリュ」をオープンした。すでに、40歳になっていた。
高校生の時にすでに進路を決めていた早熟の林にしては、遅い独立だと言えるだろう。
「最近の若い人が早く独立しすぎているんです。まあ、人にもよるし、年齢では切れないですけど。最低限、自分がどんな味が好きなのか、という根幹の部分ができあがっている必要がありますよね」。

林は帰国してから、フランスとの素材の違いをどう埋めるか、国内で手に入る素材でいかにフランス的な味わいを作り出すかに集中した。「ジャン・ミエ」の記憶が鮮明なうちにルセットを固めることに必死だった。生地やクリーム作りの基礎を固めたというべきだろう。その後は、いかに自分の世界を深く広く掘り下げて行くかに時間が費やされた。
13年という時間はたしかに長い。もちろん、独立資金を貯めるとか、シェフを経験して経営者としての資質を高めるといった要素もあっただろう。しかし、オープン時の品揃えには、“林周平ワールド”の完成度の高さが表れていたし、客を圧倒する力が漲っていた。それだけ自分の世界を極め、彫啄することに綿密に時間が掛けられていたのだった。「ジャン・ミエ」的なお菓子やクラシックなレパートリーはあるけれど、おなじルセットのものは一つとしてない。

画像たとえば、オレンジの美味しさを表現した『ヴァランシア』。
トップに配したフレッシュのオレンジはバーナーで炙り、中に射込んでいるものはグランマニエでマリネ、オレンジのバヴァロワ、ビスキュイにアンビベしているのはオレンジジュース(コンサントレ)のシロップ。オレンジの果皮がビスキュイの中とムースの上に。全体をメレンゲで覆っている。
シンプルにオレンジの味わいで統一しているが、オレンジのなかの多彩な味わいを重層的に積み重ねている。


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『アリ・ババ』は、食感の粗いブリオッシュタイプの生地にたっぷりラムシロツプを染ませている。間に挟んだのはコクあるカスタード。表面にアプリコットのジャムを塗り、ラムレーズンとオレンジのコンフィをあしらっている。
たっぷりした味わいに焦点を絞り、それに耐えられる生地作りが開発の中心課題。
シロップを100%染み込ませて、しかも滲み出さない生地。しっかりシロップを抱いて、口の中でジュワジュワと崩れる。この感触を追求しなければ、ババは成り立たない。

百貨店のイベントで実演された『クレープ・シュゼット』の生地は、練達の技、飛嚥の早業をもってして、はじめて到達できる味わい。高温に熱したバターで一気に焼き上げるクレープは一般のクレープとは違って、モチッとはするけれど、団子っぽくはならない。コアントローとアルマニャックを使ったオレンジクリームを吸って、スルスルと溶けてくれる。これがクレープか、と蒙を啓かれる想いがするほどのもの。
専用の小さなソースパンのようなもので焼くのだが、炎はパンを覆うほどに大きく燃え上がらせている。圧倒的な火力で、シュルシュルのクレープ種を焼くのだから、外側は焦げても中は生というのが普通だろう。それを実現するのは専門のクレープ職人が何年も掛かって身に付けるもの。それを林は事も無げに、技術のポケットの一つとしているのだ。

いずれも難しいことはせず、“普通に美味しいものを、普通に作った”ものばかりである。
ただし、林が言う“普通”とは、そうあるべきこと、という意味。最高度のものを日常化して普通にするということである。
思い入れは強く、「オープンの時のお客さんで、ここにはフランスがありますね、と言ってくれた人がいて、涙が出るほど嬉しかった」という。また、洋菓子の街・神戸であるから、お菓子を食べ慣れた人が多い。そのような客たちから、「フランス菓子ってこんなに美味しかったのね」と言われることも、彼を喜ばせている。
さらに、パリの「ジャン・ミエ」を知っている人、フランス滞在の長い人も沢山いて、いまだに気の抜けない毎日を過ごしているという。




◆“理念”を持っていればブレない◆
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「お店を持つ以上は経営理念を持たなければなりません」。
一般の企業と同様、ケーキ屋さんも経営理念を持たなければ、お店を運営して行くなかで、いずれブレてしまうという。
「今一番ブレているのが政治ですよね。マニフェストというのは戦略戦術レベルでしか論議されていないでしょ。だから、なにか障害に出会うごとに、政策がブレてしまいます」。
政治の話が出てくるとは思わなかったが、まさにその通り。
「どんな経営規模でも理念は必要です。店の売上を上げるために、フェアをやったりイベントに出たり、流行りの商品を取り入れたり、と戦略戦術を用いることも、政治の世界や大きな企業と違いはないのです」。その一つひとつの戦略戦術が逆に躓きの石となって、ブレが生まれる。それを防ぐのが理念。
多くの場合、経営理念には抽象的な言葉が掲げられている。「顧客のために」とか「地球の環境のために」など、あらゆる場面に適用でき、どのような企業活動にも当てはまるものばかり。しかし、個性的な企業であろうと思った時、このような抽象的な言葉は力を発揮しない。

「モンプリュ」の場合、経営理念はシンプル。“美味しいお菓子を作ること”。
数年前、久しぶりに会ったリュッフェル氏から開口一番、「美味しいお菓子作っているか」と問いただされた。久しぶり、とか、元気か、といった言葉ではなく、まずお菓子のこと。パティシエはつねに美味しいものを作りつづけなければならない、という厳しさをもった師匠。林もその厳しさをしっかり受け継いでいる。
一つひとつのお菓子に到達すべき味覚があり、それを実現するために必要な作業がある。その作業は一切手抜きが許されない。仕事が忙しくなろうが、やるべきことは変わらない。だから労働集約的な仕事のスタイルを変えられない。利益率も上がらないままだという。

林が定めている理念は作業の質そのものと言えるだろう。これ以上具体的なものはないし、絶対にブレを許さないものでもある。
さらに言えば、この作業を要求しているものは、林の“これこそが美味しいものだ”という味覚にたいする信念、確信である。ここが揺らいだら、すべてが崩壊する。だからこそ、早すぎる独立は良くない、というのだ。




◆普通に美味しいものを、普通に作る◆

林は修業時代から、自分が身に付けている知識、技術、味の趣味がクラシックに属することを意識していた。
すでに修業していた当時で30年前(今から50年前)に開発された方法論だったし、新しい動きとしてエルメの登場を見ていた。
フランスのお菓子の動向は目まぐるしく、エルメ以降、フィリップ・コンティシーニ、ジャン=ポール・エヴァン、アルノー・ラエール、ローラン・デュシェーヌ、ミシェル・ブランなど、新星が次々に登場してきた。先に挙げたエルメの弟子たちもいる。
今、フランス菓子の世界で、最先端であろうとすると、いかにエルメを乗り越えるか、がテーマとなっている。皆、この新しい流れに乗ろうとして右往左往しているが、林は「ジャン・ミエ」的な世界を守り通している。それが時代遅れになるとは思っていない。現に先日、「マスコミからシンプルさが新しいですね」と言われたばかり。流行というものは時代とともに移ろうものだから、むしろ、不変のクラシックに立脚することの方が重要だと考えているのだ。

エルメは目新しい素材を使うことで有名になったが、ただ出任せに組み合わせてみているのではない。クラシックの手法に精通しているからこそ手に入れた能力だと言うべきだろう。クラシックの精神に基づく、新しい素材の特長を深く認識するという基本を忘れることがない。
有名な『イスパハン』にしても、ライチというみずみずしい甘さの素材に出会った時、優しい甘さだけで、香りが不足していることに気が付き、単調な甘さを補うものが必要なことにも想いが至る。フレッシュのフランボワーズと一緒に使うことで、果汁が迸り出る点の同一性の下で、酸味という対極の味で味覚の広がりをもたらした。バラの香りでふくよかさを生み、香りが加わったことで味覚の立体的な構成を完成させている。
ライチのみずみずしい甘さ、という魅力を取り上げた時に、味わいを補強するために、ほかの要素を加える足し算の手法。これぞフランス菓子の古典的な手法である。

ここを誤解すると、基本を忘れて、気を衒った奇妙な組み合せ、誰も試みたことのない素材の組み合せに走ることになる。林が最近目にしたのは、レモンとラベンダーという組み合せ。美味しいのかな、と首を捻ってしまった。
先進性を示すためだけに、新奇な組み合せを選んだのであれば、困るのは客だ。これこそが美味しい、という信念の裏付けが欲しい。
林の指摘も、いきなり組み合せの独自性に走るのではなく、フランス菓子の思考法に習熟することが、逆に独自世界を開く近道であることを教えているのだ。

お菓子はアートではなく、なごやかな談笑の伴となるものだから、多少の好き嫌いはあるにしても、多くの人に美味しいと思ってもらわなければならない。だから、繰り返しになるが、“普通に美味しいものを、普通に作る”必要があるのだ。
そこで他人と差を付けるものは、いかにその素材の美味しさを深く知っているか、そして、その美味しさを100%抽き出すための技術をどれだけ磨いているか、どれだけ緻密に掘り下げているか。その基本に戻るしかない。その先に待っているのが、美しいオリジナルのケーキ。

画像たとえば、林が作る『ベルガモット』は、ミルクチョコとレモンのムース、ベルガモットのムースの2層構造。
全体を塩キャラメルでグラッサージュ。底生地は、アーモンドとレモンピールのダコワーズ。トッピングにフランボワーズとミントとチョコのプラク。
統一性のない組み合せのようでいて、すべて紅茶に結びつく素材。主役はアールグレイの香りであるベルガモット。そして、レモン、アーモンド、カラメル、チョコ、フランボワーズ、ミント、いずれも、フレーバーティーの香りとしてお馴染みのもの。複雑なようでいて、すべてが紅茶という重心に向かってしっかり働き、スッキリとした印象を築いている。
一つひとつのパーツの完成度が高いからこそ到達する自由さ。誰も考え付かない高みに翔け上がっている。普通に美味しいことを突き詰めれば、完璧なバランス感覚も磨かれるのだ。




◆簡単に終わらせるのではなく、あと一歩の追究こそ◆

林が若いパティシエたちにいつも言っているのは、「せっかく頑張っているんだから」という言葉。真面目で頑張り屋、一生懸命になって壁に立ち向かい一歩一歩登っているのが分かっていた。もう後一歩、苦しんでいるけれど、ここは自分で壁を乗り越えさせなければと、黙って見守っていると、最後のところで頑張りきれない人が多いのだという。
林はリュッフェル氏に鍛えられて、なんでも簡単に出来てしまう。自分の能力を他人にも求めてしまうところがあるのは自覚していて、最近はそれでは通用しないと反省している。
しかし、指導者が無理を強いないのであれば、本人が自ら、無理を乗り越え、壁を乗り越える後一歩を踏み出さないかぎり、現状の自分に止まるということを意味している。

林は「パティシエの仕事に難しいものはない」という。簡単には辿り着かないにしても、ちゃんと作れば美味しく出来るはずのものなのだ。その誰もが辿り着けるはずのゴールの一歩手前で挫折する若い人を見るのが辛い。「せっかく頑張っているんだから」という励ましもあまり役に立たない。
ゆとり世代なのか、情報化社会の落とし子というべきか、簡単に答えが見つかるものと思い込み過ぎているという。自分が悩み、調べ、確かめるという、壁を自力で乗り越えるための、知的な部分での地道な作業ができないらしい。
簡単に答えの出る世界に暮らしていると、本当に美味しいものの追究も甘い。自分の狭い体験ですぐに一番を決めようとする。
たとえば、マスカットが気に入ったとして、いくつかの産地を試すと、どこどこの産地のマスカットが最高と言ってしまう。場合によってはネットで調べてランキングを出し、その上位を調べるだけで良しとしているケースもありうる。
ブドウの全品種を食べてみようというような貪欲さがないという。そういう貪欲さがあれば、ブドウは皮の裏に美味しさのエキスのすべてが詰まっていることに気付くだろう。この気付きが、パティシエが独立できるかどうかの分かれ道。気付くことで、はじめてこの美味しさをどう活かそうか、という創作の第一歩が始まるのだから。
まずは、飽きるほど食べてみる、ということなのだろう。

今、気付く子、貪欲な若い人が少ない。せめて、食べることに夢中であってほしい。
若い時の林はお菓子に限らず、食全般に興味があり、食べてみたいものだらけ。気が付いたら給料を使い果たしているということが多かった。それが結果として自分への投資になったのである。
それに引き換え、最近の若い人たちは堅実というのか、食べることに消極的。どこの店の何が美味しい、というレベルでもいいから、より美味しいものに関心を持ってもらいたい、という。




◆労働集約の可能な日本でこそ、フランス菓子が生き残る◆

今、フランスではワークシェアリングが押し進められ、一人一日最大7時間までしか働けなくなった。おかげで「ジャン・ミエ」の品揃えも往時に比べて、貧弱になったという。昔より機械技術が進んで簡単に済ませられる部分も増えてはいるが、フランス菓子は、手数をかければかけるほど美味しくなるもの。ギルドの時代から綿々と受け継がれてきた労働集約型のお菓子なのである。
だから、その集約が難しくなっているフランスはフランス菓子の危機を迎えているというべきだろう。
一方、日本でもフランス菓子の業界は、労働条件があまりにも悪いと言われてはいるが、まだ、かろうじて労働集約が可能な世界。フランスに代わってフランス菓子を守る立場にあるのかもしれない。林はその先頭に立って守って行きたいと考えている。



※敬称略/このシリーズはインタビューを基にオリジナルに構成したものです(取材・執筆・撮影 久保田僕)
  文責:日本パイ協会 

※リンク先のブログ「パイ日和」「パイ日和・おまけ」の記事内容は、その当時の価格・レシピですので、現在は変わっているかもしれません。何卒、ご了承ください。